えーん、えーん。
遠くから泣き声と誰かを呼んでいる声が聞こえてくる。
“夢”と分かる夢で、内容はいつも同じ。
声と言葉がはっきり聞こえてくると、ああまたこの夢だと思う。
『おにいちゃん、おにいちゃん…っ!!!』
必死に腕を伸ばしているのは、小さな僕。
僕の指先に立っている後姿は、僕の兄さんだ。
いつもテストは満点なぐらい頭がよくて、空手の大会でたくさん優勝している、すごい人。
その上、格好いいから僕の手をぎゅっと大きな手のひらで包み込みながら歩いていても、いろんな人に声をかけられる。
僕はお母さんに似ているけれど、兄さんはお父さん似だから小学生の頃から女の子に人気があった。
でも、兄さんはどんなに人に囲まれていても、僕と遊んでくれた、あの頃の兄さんは僕を独りぼっちには絶対にしなかった。
いつも僕の小さな手をとってくれた。
『帝人』
振り向いた兄さんが僕の体を軽々と抱き上げる。
同じ年の子達よりも体が小さかった僕はよく苛められっ子にからかわれていた。
そんな時に兄さんは必ず助けてくれて、こうやって抱き上げてから僕の涙を拭ってくれた。
『おにいちゃ…わっ!』
『少し大きくなったな』
『もっともっと大きくなっておにいちゃんみたいになりたいの!』
『そっか』
僕は兄さんみたいになりたかった。
ううん、どこか一個でも兄さんに近付きたかったんだ。
兄さんが、大好きだから。
僕が少しでも兄さんみたいになれたら、ずっと一緒にいられるって思っていた。
『ぁ……』
夢の中の絵が変わっていく。
僕は闇の中にぽつんと独りになる。
手のひらを見つめると、少しだけ大きくなった僕になっていた。
兄さんと呼び始めた、僕に。
『…にい、さん……』
おにいちゃんと呼ぶのを止めたのは中学校に入学してからすぐ。
お母さんに頼まれた兄さんのお弁当を持って教室に行って、おにいちゃんと呼ぶと兄さんはすごく怖い顔をして、僕に言ったんだ。
人前でおにいちゃんと呼ぶなって。
優しくて叱られたこともなかった兄さんの低い声が怖くて、僕はその日から兄さんと呼ぶようにした。
『にいさん、だ…!』
夢の中で昔のことを思い出していると、視界の端に小さな輝きが映る。
どんなに闇が深い夜で綺麗に揺れる金色は、兄さんが中学生の時に手に入れたもの。
(あそこに兄さんがいる…!)
立ち上がって金色を追いかけるけれど、どれだけ走っても、走っても、追いつかない。
兄さんがどんどん遠くに行ってしまう。
『あっ、っ!』
闇に足をとられて転んでも、兄さんは止まってくれない。
転んで膝がじわりと痛くなると、大丈夫かと心配そうに僕をぎゅっと抱き締めてくれたのに。
―――――――いなくなっちゃう…!
―――――――――兄さんが、消えちゃうよ…!!
「にいさ…っ!!」
はっ、と目蓋を開ける。
ぼやけた視界に見えるのは、見慣れた部屋の天井だった。
ブルーのカーテンの隙間から朝の陽射しが零れている。
「…はぁ、」
夢の始まりも終わりもいつも同じ。
掛け布団を持ち上げて、ベッドから起き上がるとぽろりと冷たいものが頬を落ちる。
(情けない……)
夢を見て泣くなんて、恥ずかしい。
ぐいっと手の甲で涙を拭う。
(いつもより悲しいのは、今日だから、)
ベッドの前のカレンダーに小さな印がついてある。
それから、赤い弾んだ文字で入学式と書かれている。
どちらも書いたのは僕ではなくて、洗濯物を持ってきてくれたお母さんが書いたんだと思う。
僕にとって今日は喜ばしい一日よりも、どちらかと言えば憂鬱の方が大きい一日なのに。
カレンダーに並んで掛けられているビニールに包まれている真新しい制服を見ると、また溜息が零れた。
桜の木に囲まれた桃色の花が包み込む体育館で入学式。
僕が今日入学したのは学区内でも有数の進学校。
本当は違う学校に行きたかったのだけれど、お父さんとお母さんにぜひここを受験してほしいと頼み込まれたんだ。
この高校には兄さんがいるから。
元々お父さんの母校で受からなくてもいいから受けるだけやってみようと二人に言われて、僕は精一杯の努力をして受験に望んだ。
絶対に落ちたと思っていたんだ。
判定もずっとCだったし、担任の先生にも難しいと言われていたから。
『あっ、た……!』
張り出された紙に書いてあった自分の受験番号を見た時には幻だと思った。
頬を何度も捻って、痛いのを確認したぐらい確認した。まさか僕が兄さんと同じ学校に合格するとは思ってもいなかった。
嬉しくて嬉しくて、お父さんもお母さんもすごく喜んでくれた。
でも、兄さんは、違った。
僕の合格をお母さんから聞いて、兄さんは不機嫌そうに、そうかと一言だけ。
浮かれていた僕は頭をがんと殴られた気分になって気付いたんだ。
兄さんは同じ学校に通いたくないんだって。
だから、僕が合格しても喜ぶどころか迷惑なんだ。
嬉しくてたまらない気分が一気に悲しくなった。
どうして合格しちゃったんだろうとまで思うようになった。
(……この学校でもきっと兄さんは人気者なんだろうな)
新しい学校に入学するわくわく感が小さいのは兄さんのことを考えてしまうから。
中学校の時も兄さんは格好良くて強くてみんなから好かれていた。
同級生、下級生、少し不良と呼ばれる方かもしれないのに先生たちだって、兄さんには一目置いている感じだった。
それに比べて僕は小さくて、平凡で、運動神経も良くないし、勉強だって平均ぐらい。
僕が弟だって知られたくないからだと思うけれど、廊下や登下校の途中で声をかけると嫌そうにされた。
だから、高校でも気をつけないと。なるべく兄さんの視界に入らないようにして声も絶対にかけない。
僕を見て嫌そうに顰める唯一お母さんに似ている琥珀の瞳を見たくなかった。
小さい頃はあの綺麗な目の中に自分が映っているのが嬉しくてたまらなくて自分から映りに行っていたっけ。
僕が兄さんみたいに大きくてしっかりしていて強かったら、今でもああいうふうにしても嫌われないんだろうな。
(ふう……)
考えるだけで気分が重くなるのは、入学式が終わっても変わらない。
体育館を出て、仕事を休んで来てくれたお父さんとお母さんにありがとうと頭を下げると二人はにこにこ笑っておめでとうと僕の頭を撫でてくれた。
「そういえば静雄は入学式にいたのか?」
「さぁ。あの子ったら帝人の大切な日だっていうのに」
在校生の出席は強制ではないらしいのだけど出席するのが基本なのに、兄さんはいなかった。
「い、いいよ!兄さんだって忙しいと思うから、」
「だからってな、同じ学校にお前が入学したんだから案内ぐらいしてもいいだろう」
「大丈夫だから、ね?本当に今日は来てくれてありがとう」
珍しく温和なお父さんが怒っているから慌てて僕は首を横に振るって笑う。
「じゃあ、教室に行くね」
入学式の前に教えてもらった教室までの廊下を急ぎ足で歩きながら、僕は内心ではよかったと思った。
兄さんが入学式に参加していなくて。
僕が兄さんの弟だってすぐに知られるだろうけれどあの場所で針の莚になるのは嫌だ。
平和島という苗字は珍しいから入学式で名前を呼ばれた時に絶対に騒ぎになっていた。
兄さんがいなくても、少しざわついたような気がした。
(……静かに三年間過ごしたいな)
今以上に兄さんに嫌われたくない。
兄さんは今三年生だから、一緒なのは一年。
一年は兄さんの迷惑にならないようにしよう。
あとの二年は兄さんと比べられる時間だけど、そんなのはもう慣れている。
小学校も中学校も、そうだった。
(こういう思いも、高校で最後だもんね)
(俺の弟が可愛くないわけがないっ!/to be continue……)