昔、小さい頃。
学校が終わって帰る直前に降り出した大粒の雨。
傘も無くて、友達も帰っちゃって、どうしていいか分からなくて、半べそをかきながら昇降口で立ち尽くしていた。
全ての音を掻き消すして、景色さえも揺らす土砂降りの雨は、僕をこの世界で独りぼっちにさせた。
悲しくて、淋しくて、本格的に潤み始めた僕の視界に映った、オレンジに近い鮮やかな黄色い傘。
帝人、優しく呼ばれる声が嬉しくて、大好きな人が迎えに来てくれたことが幸せで、飛びつくように抱きついたのを覚えている。
(すごい雨………)
クラス委員の仕事をしていたら、いつの間にか外は暗くなっている上、どしゃぶりもいいところの大雨が灰色の空から降り注いでた。
(昼間はあんなに天気だったのに)
勿論傘は持ってきていないし、中間テストの前だから校内に残っている人はいないと思う。
昇降口の下駄箱の前に傘が何本かあるけれど、いくら非常事態とはいえ、誰も見ていないとはいえ、泥棒はよくない。
きっと、そんなことをしたら静雄さんに怒られる。
優しくて意外と正義感に厚い、まっすぐな人だから。
(……どうしよう、かなぁ)
目の前の校門までの道には湖のような水溜りが出来ているぐらいの雨。
一番近くのコンビ二まで走っても、確実にびしょ濡れになる。
しかも、コンビニまで全力で走っても三分はかかる。
都会の方が便利だからか、コンビニが田舎よりも少ないのが驚きなんだけれど。
「本当にどうしようか……」
思い出した子供の頃のように泣きそうにはならないけれど、困ったとは思う。
それから、やっぱり、ほんの少しだけ、淋しい。
こんなに広い池袋の中で僕は独りぼっちなんだなぁ、って。
ここには傘を持ってきてくれる人も、いない。
「……仕方がない、やっぱり走るか」
いつまで昇降口にいても、雨は一向に止みそうにない。
(ここにいるとどんどん暗い気持ちになりそうだし)
よし、と気合を入れて一歩を踏み出す。
この時点で、大粒の滴が痛いぐらい体にぶつかってくる。
「ぁ、………」
二歩目が踏み出せなかったのは、雨が痛いからじゃない。
灰色の世界に、きらきら輝く、鮮やかな金色。
ぱしゃぱしゃ、と濡れた足音が僕の方へ向かってくる。
大きな手には、紺色の傘。
向こうも僕の姿を捕らえると、長い足が水溜りで濡れるのにも構わずに大きなスライドで走ってくる。
「馬鹿野郎、こんな濡れるところで立っているんじゃねぇよ!」
「静雄、さん……どうして…?」
「とにかく、傘に入れ」
「で、でも、僕、濡れているから……」
「いいから」
傘を持っていない大きな手が僕の濡れた肩を簡単に抱き寄せる。
冷えた体温に静雄さんの手のぬくもりが暖かい。
単純かもしれないけれど、さっきまでの寂しさが無くなって、代わりに胸の中がほこりと嬉しさで溢れる。
まさか静雄さんが迎えに来てくれると思ってもなかったから。
「ったく、雨の中ぼーっと突っ立っているなんて風邪ひいちまうだろう」
静雄さんは少しだけ怒っているようだけど、怖くない。
だって、僕を心配してくれているから怒っているって分かる。
肩を抱きしめている指先が、滴で額に張り付いている前髪を梳くように撫でてくれる。
「あ、あの、静雄さん、どうしてここに来てくれたんですか?お仕事中、ですよね」
バーテン服を着ているということは、そういうことで。
真面目な静雄さんが仕事をサボって迎えに来てくれたというのはあんまり考えられないし、もしそうだったとしたら申し訳なさ過ぎる。
「ん、ああ。今日はトムさんが用事あるっていうから早く切り上げたんだ」
「え……」
「それで帰ろうとしたら突然雨が降り出しやがったからよ。お前、今日は遅くなるって言っただろう」
「この前、聞いてくれたのって……」
確か、今日の事を聞かれたんだ。
仕事が早く終わりそうだから会えないかって。
でも、クラス委員の仕事があったから、苦しかったけれど、ごめんなさいって言ったんだ。
静雄さんはほんの少し淋しそうな顔をして、仕方がないなって笑ってくれた。
心はズキリとしたけれど、自分の責任はちゃんとしないといけないから。
(でも、静雄さんが来てくれるなんて……)
「とにかく間に合ってよかったぜ。お前、走ってコンビニまで行こうとしてただろう」
「……はい」
「ったく、こういう時は携帯っていう便利なもんがあるんだからよ。俺を呼べ」
ぽん、と大きな手のひらが濡れている頭に触れる。
(よ、ぶ……?)
静雄さんの言葉に吃驚して、自分でも分かるぐらい目を丸くして静雄さんを見上げる。
大人で、仕事をしていて忙しい静雄さんを呼ぶなんて、考えてもいなかった。
「お前は遠慮し過ぎだ。たまには甘えろ」
「あま、える…?充分甘えていると思います、けど……」
また、静雄さんの口からは思ってもみない言葉。
困っている時は助けてくれるし、池袋でまだ慣れないことも優しく見守っている。
今だってこうやって迎えに来てもらって、傘に入れてもらっている。
反論するように口を少し尖らせて言うと、綺麗で格好いい顔に苦笑いが浮かぶ。
「まぁ、図々しくねぇところが帝人のいいところだからな。仕方がねぇ」
静雄さんは傘の柄を首と肩で挟むと、ふわりと長い腕でびしょぬれになっている僕の体を包み込むように抱きしめる。
「し、静雄さんっ!」
突然のことに手足を動かしても離してもらえない。
強くはない力だけれど、僕がそこから出られるはずがない。
恥ずかしいというよりも、静雄さんが大切にしている仕事着を濡らしてしまうのが嫌なんだ。
「し、しずおさん!濡れちゃいます!!」
「呼ぶって約束しねぇと離さねぇ」
「ええ……ッ!!」
徐々に強くなっていく腕の力は、静雄さんの本気の証。
本当に約束しないと離してもらえない
「ほら、どうする帝人?」
「……呼んで、いいんです、か?」
「おう」
ちらちらと見上げながら尋ねると、静雄さんが優しく僕を見下ろしている。
静雄さんにばかり迷惑をかけてしまっていいのかなぁって思うけれど。
これ以上甘えることは中々出来ないなぁって思うけれど。
―――――――――”ここ”にも、傘を持ってきてくれる人がいるのは、嬉しい。
「……分かり、ました」
「よし」
満足そうに頷くと、静雄さんは僕の冷えた額に暖かな唇で触れた。
――――――――――――まるでご褒美をくれるように。
雨はまだ土砂降りだけど、いつの間にか独りぼっちの心と、小さい頃の思い出は消えていた。
(Rainy Days/END)