静雄さんに嫌いです、と言ったのは、初めてだった。
喧嘩した、って言うのかな。
原因は、よく覚えていない。
一緒にいるのに静雄さんが苛々していたのが、寂しくて、それが心の中でだんだん怒りに変わってきたんだと思う。
嫌いと言ってしまった後の、静雄さんの顔が頭の中を埋め尽くしている。
(はじめて、みた)
誰よりも強い人が、まるで捨てられた子犬のような寂しい瞳で僕を見ていた。
迷子になった小さな小さな子のように、。
殴られると思っていなかったけれど、びくりと震えた僕を。
ただ、まっすぐと見ているだけで、静雄さんは何も言わなかった。
すぐにごめんなさい、勢いのまま謝ればよかったのに。
”ごめんなさい”、その一言は咽喉の途中で引っかかって、言葉として出て行かなかった。
(……結局、逃げ出しちゃったよ…)
静雄さんの視線を見返さずに、背中を向けて走って逃げた。
卑怯だし、臆病だって、自分でもよく分かっている。
静雄さんはすぐに怒るし、怖いけれど、僕の話はきちんと聞いてくれる。
本当な大人でやさしい人なんだと、僕は知っている。
(苛々していたのは、僕の方だ)
何で怒っているのか話せばよかったのに、僕は一方的に言葉をぶつけてしまった。
大人で、やさしくて、だいすきな人に。
嫌われたらどうしようとか考える前に、あの人にあんな寂しい表情をさせてしまったことに心が苦しい。
きちんと話せない、謝ることが出来なかった自分が子供で悔しい。
大人なやさしい人と一緒にいるために、早く一歩でも大人に近付きたいなぁと思っているのに。
「はぁ……」
ぐるぐる、ぐるぐる、纏まらない考え。
溜息が止まらない。
今しないといけないことは、たった一つなのに。
電話をかけて、ごめんなさい、を言う。
それは分かっているのに、……怖くて、出来ない。
池袋から帰らないのは、足の赴くままに歩き周って、静雄さんに見つけてもらおうとしている。
(やさしい静雄さんと比べて、ほんとうに、ぼくって……)
「ハーイ、コンニチハ!!」
「……ぁ、」
突然振ってきた、明るい声。
池袋名物だと、クラスメイトが勝手に言っていたっけ。
この声が聞こえるってことは……。
(ああ……)
視線を上げれば、静雄さんと待ち合わせによく使うト音記号がある広場にいる。
ここに来れば静雄さんと会えるんだと自然に向いた足も、情けない。
また、深い底までの自己嫌悪が始まりそうになったのを遮ったのは、以前にも聞いたことのある同じ言葉。
「ワタシ、サガシテマース!キレイナニホンゴ、サガシテマース!!」
「あの、今日は……」
静雄さんと同じ金糸だけど少し濃い髪がふわりと揺れて、化粧品の香りが強くなる。
「アナタノ、サガシモーノ、オシエテクダサーイ!」
「だから、」
「ココニ、カイテクダサーイ!!」
やっぱり以前に渡されたスケッチブック。
大きさが少し変わっているから、新しい物になったのかもしれない。
黒いマーカーも半強制的に持たされて、もう書かないと逃がしてもらえそうにない。
(っていうか、この人、いつまで池袋にいるのかなぁ)
池袋には外国人も珍しくないけれど、大きなプラカードを持って歩いている外国人なんてこの人ぐらいだからすごく目立つ。
きゅぽ、と音をたててマーカーの蓋をとるけれど、探し物、思い浮かばない。
(何書こう……)
今探しているもの……。
(探しているもの、……ひとつだけ、あるけれど……)
「アナタ、スゴク、サガシモノ、シテイルネ」
「え……」
蒼い瞳に指摘をされて、心臓がどきりと弾む。
「ダカラ、ワタシ、アナタニコエヲカケタネ」
毎日毎日歩いているたくさんの人を見ているから分かるんだと、彼女が自慢げに言う。
「カイテミルト、イイヨ。キット、ミツカル」
「………」
咽喉の奥に隠れている、さがしている言葉。
一文字、一文字、ゆっくりと書いていく。
ここに書いたから、素直になれるとは思っていないけれど。
ごめんなさい
真っ白なスケッチブックの、真ん中に書いた。
「………」
少しだけ曲がっているのは、仕方がない。
「オー、アリガト、アリガトー!!」
さっきまで占い師みたいに言っていたくせに、僕が書き終えればスケッチブックとマーカーを取り上げて、同じ言葉を言い始めている。
(もう……)
仕方がないなぁと思いながら、開いた手はようやく携帯が入っているポケットに伸びる。
スケッチブックに書いた、探していた言葉がゆっくりと咽喉の奥から溢れて来そうで。
怖いけれど、きちんと言わないといけないんだ。
震える指で、静雄さんの携帯につながる短縮の1を選ぶ。
コール、コール、……ぷつり、と音が切れる。
はい、と低い声、でも、その中にある風を切る音が、彼が今走っているんだと教えてくれた。
(探してくれている……)
嫌い、なんて酷い言葉をぶつけて、あんなに悲しそうな顔をさせてしまったのに。
さがしていた言葉はあっさりと出た。
「あの、しずおさん、ぼくです……、」
「嫌いなんて言ってごめん、なさい」
突然、体が浚われる様に、抱きしめられる。
誰、なんて聞かなくても分かる。
「全くだ。生まれて初めて死ぬかと思ったぜ、本気で」
後ろからぎゅっと抱えられるように回された腕をぎゅっとつかんで、もう一度、ごめんなさいと伝えた。
(さがしている言葉/END)