頭の中がぼんやりしている。
(いま、しずおさん、何言ったんだっけ……)
記憶に残っている静雄さんの言葉の断片を探していく。
「………ッ!!」
言葉が全部繋がったところで、卒業証書が入っている筒を落とした腕が上がる。
視線よりも下にある静雄さんの頭。
見た目よりも金色がさらさらで柔らかいのを僕は知っている。
何度も、何度も、優しく触れていたから。
静雄さんの頭に触れて、撫でてあげるのがとても好きだった。
丁寧に、大切に触れていた場所に、手のひらを拳に変えて、それを勢いよく振りおろす。
「ふざけないで、ください……!!」
拳はぽかりと静雄さんの頭を叩く。
こんなふうに暴力を振るうのは、本当に久しぶりだった。
覚えている記憶だと、幼い頃に友達と些細なことで喧嘩をして、じゃれ合うように叩き合ったぐらい。
静雄さんには痛くも痒くもないと思うけれど、それでも、久しぶりの暴力が、大好きな人に対して、なんて。
(だって、酷すぎる、よ……っ)
静雄さんがこんな悪ふざけをするなんて、思ってもいなかった。
(けっこん、しようなんて……っ)
―――――――――――僕と、離れようとしているくせに。
ずっと一緒にいる”約束の言葉”を使うなんて。
「っ………!」
悔しくて、悲しくて、もう一振りしようと上げた腕を大きな手のひらに掴まれる。
決して強くない力だけど、離れられない強さはある。
僕らの周りがごくりと息を飲んでいるのが分かる。
僕が静雄さんのことを殴ったから、ぼこぼこにされると思っているんだ。
(僕は、怖くない)
静雄さんが僕に暴力をふらないのを、知っているから。
それでも体が竦むのは次にやってくる言葉が怖いからだ。
「帝人」
「………っ」
静かな問いかけに、負けたくなくて視線を上げる。
静雄さんは真っ直ぐな瞳で僕を見つめていた。
(どうして、そんな顔している、の)
抱きしめてあげないと、泣き出してしまいそうな小さい子供のような、静雄さんの目。
静雄さんの長い指がゆっくりと僕の拳を開いていく。
元通りになった手のひらの指先に静雄さんが唇を押し当てるのと、言葉はほぼ同時だった。
「………みかど、俺がやっぱり嫌いになったか」
「……―――――っ!!」
どきりと心臓が大きく弾んだのは、優しいキスによってではなくて、静雄さんの低い声で発せられた言葉の方。
心の中に溜めて溜めて、溜め込んでいたものが一気に溢れてくる。
悲しかった、泣きたくても泣けなかった。
辛かった、僕の中の水分が全部無くなっちゃう位、泣いた。
頭に血が上る、というのはこういう感覚なんだと思う。
「なに、言ってるん、ですか」
感情のままに、――――――――言葉になる。
「嫌いになったのは静雄さんでしょう……!!!僕と離れたがっているくせにっ!!」
掴まえられていないもう一つの手で静雄さんの肩を叩いて、遅すぎるけれど、ようやく気付く。
「ぁ………」
(ぼ、ぼく、いっちゃ、った………)
体中の熱が顔に一気に集まってくる。
恥ずかしい、情けない。
(喚きたてるなんて、ばか……!!)
ちゃんと笑って、さようならを言おうと決めていたのに。
みっともない、情けない姿を見せたくなかった。
静雄さんの記憶の中に、少しでもよい僕を残しておきたかった。
縋って、泣いて、静雄さんに幻滅されたくなかったのに。
(もう、だめ、だ……っ)
いなくなりたい、静雄さんの前から、消えたい。
(――――もう、いやだ……!)
「帝人、お前……」
「は、はなし、て……っ!!」
少しだけ力の緩んだ静雄さんの腕を振りほどくために、ばたばた動かす。
「やだ……っ、もうやだ……!」
半年以上、ずっと、ずーっと、苦しかった。
一人で考えて、考えて、考えて。
静雄さんのためだって、笑おう、頑張ろう、諦めよう。
いろんなことを心の中に押し込んで、押し詰めた。
さっき、一度言葉にしてしまったのが切欠に、必死に必死に抑えていたものが全部零れていく。
ストッパーが崩壊した。
「静雄さんは僕のことなんて、どうでもいいくせに!一緒にいる気なんてないくせに……!!」
周りにたくさん人がいるのに、言葉が止まらない。
目尻がじわりと熱い。
泣きたくなくて俯くと、視界に入ったのは、静雄さんの綺麗な靴。
ああ、と心の奥がやけに冷静になって、思う。
今日のスーツも、とても綺麗で、高そうだ。
大人の女の人と一緒に並んで、お似合いな格好。
見せ付けないで、もうこれ以上苦しくなりたくない。
「僕に、いなくなってほしいんでしょう……?この間も言いましたけど、こんな嫌がらせをしなくてもいなくなります…」
静雄さんがそっと立ち上がっているのも気付かずに、ひたすら静雄さんから離れるために手を動かす。
「だから……っ!」
もう止めてください、もう離してください、言葉を続けようとして、止まる。
言いかけた言葉は、広い胸に消えていく。
「帝人」
すごく怖い声で静雄さんが僕の名前を言ったのに、体に降ってきたぬくもりは、すごく、柔らかくて優しい。
長い腕が僕の体を全部覆うように抱き締める。
大きな手のひらが僕の背中を優しく摩る。
半年振りの温もり。
もう味わうことのない暖かさに、目尻を震わす涙が抑えきれなくなってくる。
「………っ…!」
着ているものは違うけれど、静雄さんの匂い。
煙草と、優しくて眩しいお日様の香り。
――――――――――ずっと、ずっと、これが欲しかった。
二度と僕には与えられることのないものだと、半年以上思っていたのに。
静雄さんの全てを諦めていたのに。
静雄さんが何を考えているのか分からないし、どうして抱き締められているのかも、分からない。
離れるんじゃなかったの、別れるんじゃなかったの。
嫌いになったんじゃないの、僕のことを捨てるんじゃなかったの。
さようなら、するんじゃなかったの、しずおさん。
分からないことだらけで、まだ苦しくて悲しいのに、腕は静雄さんの服をきゅっと掴んで、離せない。
どんなに辛くても、やっぱり、僕は静雄さんが大好きなんだ。
「帝人、………大丈夫だから、落ち着いて話せ」
「……ッ」
「お前が言いたいこと、聞きたいこと、全部話す。……だけど、お前の怖いことなんて何もない」
「…………ぅ、っ」
「俺は、お前を離さない」
静雄さんの前では必死に堪えていた涙が、溢れた。
(未来へと続く道8/9へと続く)