静雄さんは人影の少ない路地裏でようやく僕の腕から大きな手を離す。

視線を落とすと、そこが仄かにピンク色に染まっている。

そこに、静雄さんの指がもう一度触れる。

後悔したかのような温もりに、相変わらず優しいなぁと思う。

「……帝人」

久しぶりに呼ばれた名前が、うれしい。

怒気を感じる声だけれど、こうやって、あと何回呼んでもらえるんだろう。

「……帝人。お前、俺と会うのは何ヶ月ぶりか、分かるか」

「…………」

「電話も、メールも、来ない。……何でだ」

俯いていた顔を一瞬だけ上げると、静雄さんがさっきと表情を変えていた。

(……なんで、そんな悲しそうな顔、してる、んだよ)

こっちまで泣きたく位、心が痛くなる顔。

僕が知っている静雄さんは、こんな顔をしない。

穏やかに真っ直ぐと僕を見つめている顔か、小さく笑みを口元に浮かべているか。

あとは、臨也さんに対する怒りに溢れたもの、か。

どれとも、違う。

僕が、悲しい顔をしたいのに、静雄さんがそんな顔をしていたら、出来ない。

「帝人、答えろ」

「………」

「……」

静雄さんから、僕がすごく悪いような雰囲気をぶつけられている。

(……なんで、)

どうして、僕が責められているんだろう。

暗い地面をじっと見つめていると、目元がすごく熱くなってくる。

別れを告げるために僕を待ち伏せしていたくせに。

言葉も、まるで僕を責めている様な言葉。

どうして、なんで、頭の中を同じ単語がぐるぐる回っている。

(別れたいくせに、離れたいくせに、)

連絡をとらなかったのは、静雄さんだって同じだ。

メールも電話も、くれなかった。

僕と離れるための準備を、していたくせに。

(……そういう、こと……か、な)

「帝人、聞いているのか」

若干苛立った声と一緒に静雄さんが僕との距離を縮める。

見えなかった黒い皮靴の爪先が、視界に映る。

(………、ぁ、れ…)

いつもほんのり汚れていた靴が、綺麗になっている。

(やっぱり、……そうなんだ、)

きっと、この綺麗な靴の似合う、綺麗な大人の女の人と一緒にいたんだ。

僕と一緒にいてくれた時の靴を、捨てて。

(やっぱり、さようなら、なんだ)

覚悟していたのに、半年以上前から知っていたのに。

いよいよ訪れた瞬間に、心も体も悲しくて怖くて震える。

涙を奥に閉じ込めようと必死な僕の肩に静雄さんの大きな手が触れようと伸びてきた。

「帝人…っ!」

「…っ…!!」





パシリ―――――、狭い小道に乾いた音。





静雄さんの手のひらを、叩いてしまった。

ショックだったけれど、それ以上に俯くと目の前にある綺麗な革靴。

(僕と離れる前に、履いてきて欲しくなかったよ)

綺麗な瞳を大きく見開いて、静雄さんは宙に手を浮かせたまま。

僕は静雄さんと少しだけ距離を開けて、右手に持っていたA4サイズの紙を静雄さんに見せ付けた。

みっともないところを、見せたくない。

これが、僕の精一杯の強がり。

子供のプライドを守る、たった一つの武器。






「合格証です」








「……合格、証」

「大学は、池袋からうんと離れたところにあります」

静雄さんは見開いたまま、目の前に出された合格証の文字を追っている。

土地の名前がついている大学だから、どこにあるかすぐに分かる。

静雄さんのために、合格した、大学。

ううん、僕が静雄さんに情けない自分を見せたくないために、選んだ、学校。







「……安心、してください。…心配しなくても、離れられます、……よ」







(泣きたくない、泣きたくない、……なきたく、ない…っ)

だいじょうぶだよ、しずおさん。

ちゃんと分かってるから、離れられるから。

池袋にいて、静雄さんを困らせるようなことはしないから。





「ぼく、わかってます。だいじょうぶ、ですから。でも……やっぱり、、ちかくには、いれないんです……だから、」






(泣かない、泣かない、よ)

自分に何度も言い聞かせるのに、声が震える。

情けない姿を見せたくない。

みっともない奴だと、思われたくない。

離れることになっても、この人に嫌われたくない。

だから、―――――――――――。







「さようなら」







白い紙を、強張った指から離して、同時に静雄さんの隣を駆け抜ける。

ほんの少しだけ、してしまった期待。

長い腕が伸びてきて、止めてくれるのを。




ばかな、ばかな、子供の僕。





静雄さんは、ただ立ち尽くしたまま、僕に触れることもなく。

追ってきてくれることも、なかった。




(未来へと続く道5/6へと続く)