どうやって家までたどり着いたかは、よく覚えていない。
頭の中にある壊れたラジカセが何度も何度も繰り返し繰り返し、音を鳴らす。
新羅さんと、静雄さんの会話を。
(はっきりさせる・・・、ちゃんと言うって・・・)
静雄さんのこわばった顔が角膜にこびり付いている。
何度瞬きしても、離れない。
僕の話をする時には、いつも穏やかな視線があった。
喧嘩をする時、臨也さんを見つけた時は怖い顔をするけれど、それとも違う。
本当の、本当に、真剣だった。
嘘や冗談ではなくて、静雄さんは本当に思っている。
(僕と、別れる、んだ・・・)
夢遊病者のようにふらりふらりとしながら、鍵を開けて、僕だけの箱庭に倒れ込む。
踏ん張っていた全身の力が一気に抜けたから。
「・・・・・・」
自分でも家に帰れば泣いてしまうと思ったけれど、涙は全く溢れてこない。
目尻はじわりと熱くなっているけれど、雫は体の中で乾ききったようにこみ上げてこない。
ショック、というよりは、やっぱりそうなんだと心の隅っこで思っている自分がいる。
浮かれたまま静雄さんと一緒にいる将来を考えていたけれど、それは僕だけ、静雄さんはそんなことを考えていない。
一緒にいるどころか、離れることを考えていた。
僕がはしゃぐように静雄さんと歩くことばかり想っていたのは、きっと怖かったからだ。
どこかで静雄さんの大きな手のひらを離さないといけない時が来るのを僕は分かっていた。
考えないように想わないようにするために、目先の未来に必死になっていた。
「・・・・っ」
そうだとようやく納得できても、簡単に離れられない。
(だいすき、なんだ・・・っ)
喧嘩早くて乱暴者で怖い人だとみんなに恐れられていて、僕自身も最初はそう思っていたけれど、本当は違うと知っている。
少ない言葉の中に思いやりをたくさん含んでくれた。
落ち込んでいると長い指先が僕の髪を何度も何度も梳くように撫でてくれた。
雨の日は一本しかない傘の中で、自分が濡れるのに僕の方に傾けてくれた。
道路を歩くと、いつも車道側を歩いてくれた。
一緒にご飯を食べると言葉にしていないのに、おいしいなぁと思ったものを自分の皿から僕の皿の上に置いてくれた。
いろいろな静雄さんがどんどん溢れてくる。
優しくて、きれいで、格好よくて、不器用で。
涙の代わりに、止めどなく、たくさん、たくさん。
「・・・すき、だいすき・・・なんです・・・っ」
目を腕で覆ってもやっぱり涙は出てこなくて、静雄さんの
顔ばかり、だ。
静雄さんに別れようと言われたら、僕はきっと泣いて縋ってしまう。
もしかしたら、もっと酷いことをしようとしてしまうかもしれない。
(・・・・あの人に、臨也さんに、・・・絶対駄目だ・・・っ)
暗い考えに陥りかけていた頭を小さく振る。
静雄さんは優しい人だから、僕を傷つけない言葉を、少ない言葉の中から探しているはずだ。
(僕に、幸せをたくさんくれた人、)
僕も、同じものを返さないといけない。
静雄さんの、これからの幸せを。
静雄さんを思えば、強くなれる。
「・・・・・」
起きあがって、鞄からプリントを取り出す。
冷静になっていく心を感じながら、同時に静雄さんの大きな手から僕の手のひらがゆっくりと離れていく感覚もある。
消しゴムで、書かれている大切な文字を一気に消す。
手のひらにあるシャープペンはまるで書く文字をずっと前から知っていたようにさらりとプリントに綴った。
静雄さんの手から最後の僕の人差し指が完全に離れていく。
「・・・・・っっ」
乾き切っていたはずの、涙が、溢れた。
在り来たりだけれど、僕に出来るのは、静雄さんと距離を置くことだった。
静雄さんのため、と言葉では繕いつつ、静雄さんに会って直接別れを切り出されるのが怖いだけ。
少しでも、あの優しい人から聞きたくない言葉を遠ざける為に、僕は静雄さんと連絡をとるのを止めた。
受験があるからとメールを打てば、静雄さんはすぐに分かったと返事をくれた。
優しい人だから、きっと僕がすごく頑張って勉強しているんだと思っている。
(勉強なんて、ほとんどする必要ないのに)
ただ、時間が延びただけだと分かっている。
―――――――――――――――さようならを直接言われる時間を。
電話、メール、ほんの少し前までは静雄さんの名前で埋まっていた携帯電話が変わっていく。
静雄さんの名前は無くなって、正臣や園原さんの名前が増えていく。
頑張れと応援してくれるメールも留守電も無くなって、――――――――ああ、やっぱりと。
静雄さんは僕との別れの準備をしているんだ。
自分で距離をあけているのに、寂しくて、苦しくて、たまらなくなって。
――――――夜、眠れなくなる。
今からこんな状態でどうしよう。
高校を卒業して、静雄さんから離れないといけなくなるのに。
ううん、その前に一緒にいれなくなるのに。
時間は、あっという間に過ぎていく。
静雄さんとの連絡はほとんど無い。
たまにくるメールは開く前に全部、デリート。
電話は、出なかった。
そういうことをしても、静雄さんが僕に直接会いにくることはなかった。
ああ、やっぱり――――――。
時間が経つごとに、未だに忘れない静雄さんと新羅さんの会話が頭の中で大きくなっていく。
眠れない日々は続いて、受験勉強は、ほとんど出来なかった。
それでも、日々は重ねて重ねて、重ねて。
僕は受験に合格した。
(未来へと続く道3/4へと続く)