街がようやくゆっくりと動き始める時間に、僕は玄関に立つ。

「じゃあ、行ってきますね」

先月まで住んでいた玄関と呼んでいいのか分からない玄関じゃなくて、靴箱も傘置きもある、石畳が敷き詰められている、ちゃんとした玄関。

ここは、静雄さんと一緒に暮らし始めた、新しい家。

桜が満開になる前に、静雄さんは僕をこのマンションに連れてきてくれた。

――――――今日から一緒に暮らす家だ、って。

実家に戻るはずの僕が首を横に振る前に、静雄さんは駄目だと言った。







もう一緒に暮らすのは決まっているんだ――――――。






静雄さんは、勘違いをして離れようとしていた、酷い言葉をたくさんぶつけた僕を責めない。

責めるどころか、一緒にいる時間はほとんど抱きしめてくれて、たくさん話をしてくれた。

静雄さんが思っている事や、これからする仕事の事。

一つ話が終わると、聞きたいことはないかと訊いてくれた。

安く借りれたんだと教えてくれた、マンションも僕のために選んでくれたと分かる。

池袋よりも都心から離れた街。

静雄さんは僕の大学を考えて、少しでも近い場所のマンションを選んだんだ。

それでも、一限がある日は太陽が出始めるのとほぼ同時にマンションを出ないと間に合わない。

見上げると、金色がぴょんぴょん跳ねている、まだまだ眠そうな静雄さんが、片腕を伸ばしてきて、僕を抱き寄せる。

「やっぱり見送りいいですよ、静雄さん。まだ眠いでしょう・・・?」

パジャマ姿で気だるげに寄りかかってくる静雄さんは色っぽくて朝からどきどきするけど、どこか可愛い。

ぎゅーっとしてあげたくなるぐらい、可愛い。

これが見られなくなるのは寂しいけれど。

(無理はしてほしくない)

静雄さんは仕事で忙しいのに、僕のせいで寝不足になってしまうなんて。

「明日からは寝ててください。ね?」

見た目より柔らかい金色の癖を撫でると、頬に静雄さんの唇が触れる。

「……馬鹿、気にすんじゃねぇ。お前を見送ったらもう少し寝るからいいんだよ」

僕の後頭部に回っている大きな手のひらが、撫で撫で、と優しく動く。

本当はそれでも静雄さんに寝ていてください、としつこく言わないといけないと思うんだけれど、見送ってもらえるのも嬉しいから、小さく、笑う。

「寝坊、しないでくださいね?電話しましょうか」

「…頼む」

お前の声も聴きたいしな、耳元に低い声が吹きかけられて、小さく体が揺れる。

「し、しずお、さんっ!」

こんなことされたら、僕が変になるのを知っていてわざとやるんだ。

「今日も可愛いな、帝人は」

「ば、ばか、ぁ、です……っ」

頭のてっぺんに小さなキスがたくさん降るのを感じながら、ぐいぐいと静雄さんの体を離すために腕を突っ張る。

静雄さんは恥ずかしい人になった、と思う。






―――――――一緒に、暮らし始めてから。






すき、とか、かわいい、とか絶対に言わない人だったのに、普通に言葉にするようになった。

「気をつけて行ってこいよ」

押した体はあっさり離れて、ちょっとだけ寂しい。

(ば、ばか……ッ!僕の方が、ばか、だ)

こほん、と一息吐いて。

「朝ご飯は、いつも通りテーブルの上にありますからご飯はジャーからいれてくださいね。お鍋にお味噌汁もありますから、少しだけ温めて下さい」

静雄さんは和食が好きだから、ご飯に蜆の味噌汁、焼き鮭に胡瓜のお付けもの、菠薐草の胡麻あえ、が今日の朝ご飯。

「おう」

「お昼のお弁当は青い包みに入っていますから。今日は、中華風ですよ」

お昼は昨日の夕飯の残り物の豚肉、玉葱、レタスの炒飯と、静雄さんの好きなお醤油味の卵焼き。

甘酢たれのミートボールと、金平牛蒡の豚肉巻きも昨日の余り物。

「さんきゅうな」

「あと……」

「帝人、遅刻すんぞ」

「ぁ……」

静雄さんが優しく苦笑いをして、ぽん、と僕の頭を撫でる。

言いたいことはたくさんあるけれど、僕は遅刻しちゃうし、静雄さんが寝る時間が無くなっちゃう。

「じゃあ、本当に、行ってきます」

「気をつけてな」

静雄さんが少しだけ前かがみになって膝を折ると、僕の目線の高さに頬がくる。

「………ん、いって、きます」

ちゅう、と小さな水音をたてて、静雄さんの頬にキス。

「おう。―――――――行ってらっしゃい」

お返し、というように、唇に優しいキス。

新婚夫婦みたいで恥ずかしいなぁと思うけれど、……嫌いじゃない。

たぶん、半年以上静雄さんとこういうことをしていなかったから、感覚がちょっとおかしくなっているのかもしれない。

静雄さんにぎゅーっとくっついていたくなるし、抱きしめて貰うと、とろとろな気分になる。

「……しずおさん、」

玄関のドアが閉まる最後の最後まで静雄さんの顔を見ていたくて、閉まる瞬間にばいばい、と手を小さく揺らす。

優しい笑みを口元に浮かべて、静雄さんも大きな手を振ってくれた。






マンションを出て、空を見上げると、真っ青な色が世界を埋め尽くしている。

(いい天気、)

あの日、さようならを独りで理解した日に見た、橙色は、ない。

それに、見慣れた池袋も目の前にはないけれど。








―――――――――きっと、静雄さんが選んだこの街も見慣れるようになる。








大人になって、池袋に戻ることだって出来る。

僕の未来は、この空のように、無限に広がっているんだなぁ、なんて恥ずかしいことを思う。

たくさん苦しんで、悩んで、独りよがりの答えを出して、自分よりも静雄さんをもっと傷つけてしまったけれど。

例え、これからもどんな道を選んだとしても、静雄さんの隣にずっといることだけは、変わらない。

先の見えない僕の未来だけれど、はっきりとそれだけは、強く想えた。







(未来へと続く道/END)